献体50年
日本大学歯学部 日本大学歯学部の歴史は、大正5年(1916年)、医歯一元論を提唱した佐藤運雄によって創立された東洋歯科医学校に始まり、これは大正9年(1920年)に専門学校に昇格し、大正10年(1921年)に日本大学と合併し、日本大学専門部歯科が誕生した。日本大学専門部歯科は、昭和22年(1947年)に日本大学歯学部(旧制)の設置が認可された後、昭和27年(1952年)の3月に廃止された。同年4月に日本大学歯学部歯学科(新制)の設置が認可され、昭和31年(1956年)には大学院歯学研究科が併設された。 昭和22年(1947年)に日本大学歯学部の設置が認可されると同時に慶應大学出身の加藤信一が解剖学担当の教授に任ぜられた。また翌23年(1948年)には慶應大学出身の三井但夫も専任教授となった。昭和34年(1959年)に三井が慶応大学に移籍したため教授は加藤1人となったが、助教授であった尾崎公と磯川宗七が昭和43年(1968年)に教授に昇格し、教授は3名となった。尾崎と磯川はともに日本大学歯学部の第1期生である。昭和46年(1971年)に加藤と尾崎は松戸歯学部に移籍したため、日本大学医学部助教授であった北川正が同年に歯学部に教授として赴任し、第1講座を担当し、磯川は第2講座を担当した。昭和50年(1975年)に磯川の逝去により教授は北川のみとなったが、昭和52年(1977年)に第2講座の助教授であった戸田善久が教授を拝命し、現在に至っている。平成5年(1993年)に第1講座の北川が定年を迎え、後任に第2講座の助教授であった高城稔が同年に教授を拝命し、第1講座に赴任し、現在に至っている。 解剖学実習用の遺体の収集業務およびこれに付随する事務は、昭和24年(1949年)から昭和41年(1966年)までの間は、解剖学教室の教員によって交代で行われていたが、昭和42年(1967年)にこれらを専門に行う職員1名が解剖学教室に配属されるようになった。以後、退職などによって生ずる欠員は補充されており、現在は4代目となっている。 解剖体の収集は、昭和22年(1947年)から昭和30年(1955年)までの間は平均して1年間に約8体、昭和31年(1956年)から昭和40年(1965年)までは約16体、昭和41年(1966年)から昭和50年(1975年)までは約12体が収集された。昭和51年(1976年)から昭和60年(1985年)までの遺体収集数は飛躍的に増加し、l年間に平均して約22体となった。これは昭和58年(1983年)に医学および歯学の教育のための献体に関する法律が定められ、施行されたこととも関係しているように思われる。昭和61年(1986年)から平成7年(1995年)までの収集数はさらに増加し、同様に約32体であった。平成8年(1996年)においても解剖体の収集は順調に進んでいる。 白菊会日本大学歯学部支部の会員数は、昭和43年(1968年)には30名、昭和48年には70名で、その時までの献体成就者は16名であった。昭和46年(1971年)に北川が教授を拝命した当初の会員数はまだ少なかったので、解剖体を会員以外に求めなければならなかった。そこで、北川はこの状況を多くの関係各位に説明し、解剖体の確保と白菊会会員の数の充実にご協力をお願いし、解剖体収集に地道な活動を続けた。現在、白菊会日本大学歯学部支部の会員も約550名にまで達し、会員の献体成就者もすでにl60名を越え、平成7年度の解剖学実習では5〜6人の学生に1体の割合で実習が行えるまでになった。 学生教育のために献体された解剖体の追悼法要は、毎年10月に日本大学松戸歯学部との共催で築地本願寺において多数の学生、教職員および遺族の参列のもとに執り行われている。 (解剖学教室第1講座)
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